NEWS 平成27年度 第1回 金城大学プログラム 【看護講演会】
「新しい家族を迎える人々と向かい合った助産師の40年」報告

NEWS

看護

平成27年度 第1回 金城大学プログラム 【看護講演会】
「新しい家族を迎える人々と向かい合った助産師の40年」報告

日時:平成27年7月25日(土)13:30~15:00
場所:北國新聞会館20階ホール
講師:永山 くに子氏(金城大学看護学部長)

講演の冒頭で永山先生は「助産師という生業を得て、新しく家族を迎えようとする人々との出会いにより、毎回とても大きなものを得て感謝の気持ちでいっぱいです。今回は、一助産師として40年生きてきたその過程をお話させていただきます。また、皆さまご自身の人生とも重ね合わせ、考えていただく時間になれば良いと思います」と挨拶。講演はあらかじめ用意されたレジュメにそって、5つのテーマごとにすすめられました。

150725after_pic01

 

●講師:永山 くに子 プロフィール

昭和23年(1948)富山県入善町生まれ。高校卒業後上京、東京大学医学部助産婦学校を卒業し、当時の日本国有鉄道保有の中央鉄道病院(後のJR東京総合病院)に勤務。その後の国鉄改革により「JR東日本」に再就職します。
平成2年(1999)国鉄の民営分轄化に伴い、JR東京総合病院高等看護学園教頭、副看護部長を兼務しながら管理職を務めます。その傍ら、部下280名という重責を担うために一念発起。経済を学ぶべく『駒沢大学経済学部』の夜学に入学し、学士を習得、その後大学院で修士を取得しました。当時の睡眠時間は1日3時間ほどでした。
この時学んだ内容が、「少子」や、看護界における管理レベルの向上という課題につながり、「看護」と「経済」という2足のわらじを履くことになったのです。
平成8年(1996)、元助産師で当時の法務大臣・南野知恵子(のおのちえこ)氏の強い依頼もあり、山口県立大学看護学部の講師に就任します。平成12年(2000)、今度は富山医科薬科大学の医学部長で和漢薬の権威である寺澤捷年(てらさわかつとし)先生との交渉により、生まれ故郷の富山大学医学部(旧富山医科薬科大学)看護学部の教授に赴任する事となります。平成24年9月まで教鞭をとる傍ら、お産にも立ち会いました。その後は、引退も考えていましたが、新たに金城大学からお声が掛かり現在に至ります。

150725after_pic02

 

①選ばれた誕生

1人の女性が一生のうちで排卵するのは450~460個ぐらいです。一方、男性の精子は天文学的な数字ですから、人間はとてつもない確率でこの世に生を受けているわけです。それが、年間27万件ぐらいは望まない妊娠で堕胎している現実があります。この世に1つの命が誕生するのは、猛烈な競争であり、選ばれてこの世に生を受けているという事を、皆さんにもう1度確認していただきたいと思います。
母と子は解剖・組織学的にも血がつながっていません。胎盤から出てくるおへそと胎児はつながっています。米粒大からたった280日で3000gになり、約50~100兆ある細胞が組織・器官となり、臓器が形成されるというメカニズムは驚きであり、その仕組みはいまだ完全に解明されていません。しかしながら命のリレーは、今このときも続き、永遠の営みとして存続してゆくことでしょう。

150725after_pic03

 

②人がひとを産むとは

私の人生での糧となるようなサポートをいただいた方がお2人いらっしゃいます。そのお1人が御茶ノ水女子大の名誉教授・藤原正彦先生です。藤原先生は数学者でもあり『若き数学者のアメリカ』など多くのエッセイを書かれ、エッセイスト賞も多数受賞されております。有名な山岳小説家、新田次郎氏と藤原てい氏の次男に生まれた方です。奥様が第一子妊娠の際、妊婦健診や出産に立ち会われ、人が生まれるという事の感動を『人が人を産むとは』というテーマで情感的に描かれ、その年のエッセイスト賞を受賞されました。対談の際に、自分が親になり初めて両親に対する感謝がわきあがってきたという思いを強く語っておられたのが印象的でした。

 

③人は大事に扱われてこそ命輝く

もう1人は、映画監督の山田洋次氏です。寅さんシリーズでもおなじみでギネスブックにも掲載されており、日本のみならず世界的にも有名な映画監督です。
国鉄時代、民営分割を前にとても厳しい状況にあった時、知り合う機会がありました。そのとき、「永山さんは看護婦さんですよね。患者さんを大事に扱われますか?」との質問に私は「もちろん」と回答しました。そうすると、「患者さんを大切に扱う、あなた自身、自分を大切に扱っていますか?」との言葉が返ってきました。胸をグサリと本質を突かれ声も出ませんでした。「自分が本来どうあったらいいか」や「本当に自分はどうありたいか」を大事にしていたかを気付かされました。それ以降、「人は大事に扱われてこそ命輝く」を座右の銘とし、心に刻み、本日までやってきました。

150725after_pic04

 

④家族の規模は何によって決定するか

●出世力の経済学から

私が大学院課程で学ぶ過程において出会った出生力理論に関する国内外の文献からいくつか紹介しましょう。「出生力の経済学」(大渕寛著,『経済人口学』新評論、1991)の章から3つのモデルを紹介したいと思います。

1.ライベンスタインモデル(1957)

「子どもの限界効用・不効用説」
「効用」とは子どもがいることで物を買ったり、貯金したりするなどの経済効果、さらには将来に稼いでくる収入源になる事、そして老後の社会保障を託せるなどの利点です。「不効用」は、女性が子どもを産まずに働いた時に得られるであろう機会費用 や、子どもの教育費・養育費などの負担金であり、これらの『効用』・『不効用』のバランスで、子どもの数は決まるのではないかという説です。

2.ベッカーモデル(1960)

「子どもの質」という概念を基軸とし、所得水準と出生力との関連から子どもの数を決定しようとする理論です。つまり、第二次世界大戦後の貧しい時代には、子どもの数が多く、貧しさゆえ教育を受けたくとも受けられなかった世代が反動によって自分ができなかったことを子どもに託すようになり、子どもの質を高めようとするため、自ずと子どもの数は多くならず、2・3人になるというのがベッカーモデル説です。

3.イースターリンモデル(1969)

イースターリンは「相対所得」すなわち、現実の所得と願望との比率によって生活標準を設定するという概念に基づいて出生力行動を説明している。つまり、経済的に豊かな家庭に育った人は、おそらく相対的に高い消費標準をもつであろうことから、両親の以前の収入実績が反映することが考えられる。自分が生まれて育ってきた環境の要因によって次の世代の生活のスタイルを決めていくという説です。比較的贅沢に育つことにより、「生活の質を下げてまで結婚したい」とは思わず結婚しない、または結婚しても子どもの数はせいぜい1人か2人になってしまうとうことです。

これは理論上のことですが身近でおきている現実の受け止めとしては切ない現象です。

●日本における家族の自助原則・努力の特性

本学の市民公開講座において「今問われる家族力」でもお話ししましたが、日本には、子生み子育てや老後の親の看取りなど、古いモデルがあり、これを総称して『家族の自助原則・努力』といいます。例えば、里帰り出産や老親の介護などがそうです。現在、その家族の自助原則にとって必要な家族力に大きな変化が起き、日本の大きな問題になっています。

1.「里帰り出産」にみる自助原則

昔の里帰り出産は嫁ぎ先の口減らしであり、農家の嫁が出産で働けない期間、里において娘とその子の面倒を見てもらうというものでした。現代の里帰りは、育児休暇が取りやすくなった事もあり長期間(1ケ月以上)の滞在となっている場合も多い。しかし、祖父や祖母は日中、外で働くため、肉体的サポートがある訳ではなく、母子のみが居宅している状況です。
オランダのように自宅出産の場合、10日ほどの家事育児サポートが付く国もあり、そのような社会保障が行き届いているなら自宅出産も可能ですが、日本では家族(実家)が出産育児を引き受ける形になっています。

2.介護の担い手が「嫁」から「嫁にやった娘プラス息子」へ

昔は介護の担い手が嫁や妻だった。現在はベッカーの説でもわかりますが、少子化の子どもたちが大学を出てそのまま都会に残るという道を選でいます。そのため、独居の高齢者が増えているのにも拘わらず、介護の担い手が少なくなっています。つまり、介護の担い手が嫁や妻から、遠方にいる息子へと変化せざるを得ないわけです。仮に50代の息子が仕事を辞めて実家へ戻り、親の介護に専念した場合、息子の収入や年金などの社会保障がどうなるのでしょうか。

●子どもの数と職住近接

日本は「家族の自助原則」は、まだまだ必要で、これはいつまで続くのでしょうか。自営業や田舎の3世代同居などの家庭では多くの子を育てることが可能であるのに対し、地方や全国版のサラリーマンなどは、せいぜい1~2人しか育てられないという実態が調査研究で明らかになっています。

日本のこれからの家族の有り方を再構築することが急務となっています。

150725after_pic05

150725after_pic06
150725after_pic07
150725after_pic08

 

⑤金城大学の校章に秘められたこと

「松任石川中央病院」(白山市倉光)横に、金城大学松任キャンパス看護学部棟が完成し、平成27年4月より、1年次生93名が学んでいます。
雪の結晶の中に白梅をあしらった校章は、1907年金城女学校の校章として現在まで受け継がれています。雪深い北国の寒さに耐えながら清らかな花を咲かせる白梅のような、そんな女性を育てたいとの思いが込められています。雪をかぶっても毅然と気高く泰然として品格を失わず、優雅に清雅に美しく力強く咲く白梅は、遊学の精神の自主自立と『良妻賢母』の善良優美のシンボルとして今も生きています。その精神は看護学部にも受け継がれてゆくことを期待しています。

150725after_pic09

最後に永山先生は「この学校に呼んでいただいた事に感謝をすると共に、思いがけない出会いの不思議さも感じております。人生思うようにはならなくとも、最大限に花開きこの世に生を受けた意味を持つべく、残された時間をこの校章に恥じない生き方をしていきたいと考えています」と述べて講演を終了しました。